【能登半島地震・災害地からのルポ 】オーストラリアの公共放送SBS 緊急報告/JFJN代表・瀬川牧子

【能登半島地震・災害地からのルポ】

オーストラリアの公共放送SBS 緊急報告

JFJN代表 瀬川牧子(2024年1月18日)

 

今年1月1日午後、最大震度7を観測した能登半島地震―。大手全国紙やテレビからは生生しい状況が報じられているが、「現場に入らないと真相は掴めない」との東日本大震災・福島第一原発事故一連の教訓から、JFJN瀬川も1月4日から緊急に現場入りをした。

今回は、福島出身の原発、そして震災専門ジャーナリスト、藍原寛子氏(JFJNのメンバーである)が全面的に協力、現場の総合監督を務めた。取材放送先はオーストラリアの公共放送SBSNewsだ。

1月5日漢8日までの連日、高視聴率のゴールデンタイム(日本時間午後4時)に実況中継を通じて、豪州に被害の現状を配信した。

死者2万人以上を発生した2011年3月11日「東日本大震災」の現場取材を、藍原氏も瀬川も経験していたから、ある意味、震災現場での心構えや緊急時の予測はある程度持っているつもりだった。意外なことに、これだけ震災を経験している日本だが過去の教訓を本気で習得しているのだろうか本気で疑問に思うことが。正直、政府支援や体制に関して、「東日本大震災」以上に、戸惑いを隠せなかった。震源地の能登半島先端は、陸の孤島と呼ばれ、交通の不便さが仇となってるだけだろうか。対応の遅さ、物資配達の量の少なさに驚いた。

1月4日、実は、瀬川はオーストラリア公共放送とは別に、フランスの国営放送局「France2」担当の女性記者と能登半島最北端で震源地「珠洲市」へ早朝から出発予定だった。が、4日の早朝に、先に現場を撮影していた先方2人組フランス取材班が、被災地からの帰路途中、道路の割れ目にタイヤを挟んだ結果、破裂させてしまった。3日の午後4:30に彼らは「珠洲市」を出発し、4日の午前07:00に拠点の富山県氷見市のビジネスホテルに戻って来た。平常時なら3時間のところが、道が完全に寸断されたり、破断していることから、渋滞などが続き14時間以上の運転で、大騒動となっていた。交通事故などもあった為か、安全性の確保の為だったのだろうか、瀬川の運転出番は取り消しになった。4日午前、同ホテルの朝食を取った後、しぶしぶ、都内に帰る支度をしている。と、間髪を入れず、藍原氏から瀬川の携帯に連絡が入った。「明日から、オーストラリアの公共放送SBSが能登半島に取材に入る予定。一緒に協力して取材しよう」「震災現場の運転なら私は慣れている」―。と、頼もしい掛け声に二つ返事で承諾した。

1月5日正午、福島県福島市から、藍原氏が自家用車トヨタプレリウスを運転し、富山駅前に到着。その15分後に、SBS Newsの特派員、アーロン・フェルナンデス氏が、JR「富山駅」に到着。数日前、緊急招聘が入った時、フェルナンデス氏はタイのバンコクで、甥っ子らと一緒に家族の休暇を満喫している最中だった。半袖Tシャツと薄手のズボンという休暇そのままの夏服姿で出陣して来た。外部の温度は氷点下1度だったと思う。全体で100㌔重量は軽く超えるだろうカメラ、照明機材、スーツケース2個を軽々と持ち上げて颯爽と歩く。「これが戦場ジャーナリストという人種なのだろう」と感慨深く、フェルナンデス氏を尊敬の目で見つめてしまった。緊急時で時間が間に合わなかった性か、カメラマンは来日していない。フェルナンデス氏一人が、カメラ撮影、音声、録音、脚本作り、そして生中継発信をこなすことになる。

(1人で実況中継するフェルナンデス。全て自家製。照明、カメラ、音響、台本、取材、全部1人で成し遂げる)

 

 

駅から降車するや否や、藍原氏の車の中で、なにやら、既に、被災地の一部でもある富山駅周辺の状況についてマイクを片手に一人静かに実況説明をし、音声を収録し始めた。文句一つ漏らさず、一人三役を黙々とこなす姿は、自衛官以上に本物の自衛官のようではあった。富山県も同様に被災しており、県庁、市役所前の通り道路は地震の揺れで、ひび割れが目立っていた。周りには、「立ち入り禁止」を意味する黄色いテープが貼られていた。この日は、富山県氷見市のコミュニティセンター避難所で夕方17:00頃から配給される自衛隊「炊き出し」を取材。収容出来同避難所には約70人の住民らが避難生活を強いられていた。ほとんどが65歳以上の高齢者だった。その日、配給されたのは新米のおにぎりだった。富山県の中でも、震源地の輪島半島に最も近いという地理的原因で、氷見市は最も県内で被災した地域だった。家が全壊したという避難者には出会わなかったが、水が全くでなくなったとか、余震で次の津波が心配だから等という理由で、海岸線沿いの住民らが同避難所に押し寄せていた。

 

 

 

 

 

 

取材班の拠点を氷見市のビジネスホテルに設定。

翌日、1月6日早朝05:00、ホテルを出発。藍原氏の凄腕運転で、震災被害が最も過酷だと伝えられている輪島市を目指す。氷見市を出ると物資、水は皆無に近いという情報から、ホテル近くのセブンイレブンで可能な限り大量の水、保存が効くパンやカロリーメイトなどを買い込む。通常なら、2時間弱で車で到着する道は、その数倍はかかる。氷見市を出て、10キロ程度、進むと途中、石川県七尾市に到着。少しずつ、道の様子、周りの風景が変わり始める。道に割れ目が目立つようになり、中には道そのものが全滅し、グーグルマップを見ながら、何度も経路を変更する。

道路のど真ん中が陥没している部分もあり、運転は一瞬たりとて気を抜けない。のろのろと30キロ程度で気を付けながら運転してから4時間程度だろうか。新車が道路の裂け目の間に落下しているのを目撃。

 

 

 

 

 

能登空港の近くから、輪島市に向かう全10キロの下り坂の山道に入る。全長10メートルはあるかと思われる巨大岩がトンネルの出口付近で転がっている。途中、私たちの前を走っていた白い普通乗用車が道路の割れ目にタイヤを挟んでしまった。一瞬でタイヤバーストに。運転手の男性は、乗用車を路駐せざる得なかった。少しの気の緩みが命取りとなる。山道をのろのろと下り、そろそろ輪島市内まで数キロ先というところだった。高さ100メートルはあるだろうか。小高い山がほぼ丸ごと土砂崩れを起こしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

壮大な規模の土砂崩れに呆気に取られていると、前方と後方から、それぞれ30台近くの救急車と消防車が走って来た。しかし、この輪島まで続く山道は、道路が陥没している部分が多い為か、一方通行で、どちらかが先に通るまでは渋滞で待機する他に選択肢がない。そんな中、緊急車両らがけたたましくサイレン警報を鳴らしながら1時間の立ち往生。渋滞に巻き込まれて、停止状態が続いた。

 

 

 

 

 

 

「災害時の人命救助のタイムリミットは72時間。被災してから72時間を経過すると生存率が大幅に低下する危険がある」―。これは災害時の人命救助の基本的知識だ。もう6日目だ。この消防車両、救急車両の1時間遅刻が被災者にとって何を意味しているのか?1秒を争う話ではないだろうか?

振り返って13年前、2011年3月16日午前、瀬川は東日本大震災で津波被害に合った仙台市そして名取市に取材で入っていた。(英国の日刊紙テレグラフと一緒)。その時は、道のインフラがまだ能登半島ほど破壊されていなかったからだろう。数百台の救急車、消防車が150㌔以上の猛スピードで、海岸地帯の人命救助に向かって行ったのを数回、目撃している。

「何かがおかしい。3.11の震災以降の支援体制よりも、ここ能登半島の派遣人材、物資が遥かに悪化している」。

当時、震災直後、東京と東北を結ぶ東北自動車道、国道4号には100台以上の自衛隊ジープの往来を目撃。物資や水が大量に運ばれていた。自衛隊や警察官らの機敏で迅速な対応に割りと感動はしていた。

「陸の孤島」でもある能登半島は道路インフラ整備が劣性だからだろうか。「取り残された感」の負の感情を払拭し切れなかった。1時間の渋滞は何とか回避出来、のろのろと山を下って、港の漁師町である輪島市にようやく到着。7時間の長時間運転だった。

市内に一歩、足を踏み込むや否や、家屋、ホームセンター、スーパー、道路、電柱が至るところで崩壊していた。3.11の津波跡地を彷彿させられた。全く、同じ。

市内の全体の状況を把握する為に、輪島市役所に向かう。市役所前の正面限界付近では、パソコンモニターを開けて、千葉県を本拠に置く民間ドローン企業が、ドローン試運転をしていた。

これから瓦礫の中のご遺体捜査に役立てたいという。

トイレを借りに市役所の2階に上がる。水は全く止まっていて、排泄物は流せない。不衛生な状態が続く。そのトイレの直ぐ隣で、高齢者の男性らが肩を寄せ合って対談をしている。「こんにちは。大丈夫ですか?」と、目が合った高齢男性に声をかけるもの、返事はない。床ばかりを見てうつむいている。そこは、精神障碍者(チャレンジド)や認知症などの患者さんらが避難所として入居している場所だった。彼らの世話をしている社団福祉法人の女性はこう語った。「まだ、安全が確認出来ていない人もいます。ガス、電気、水道はまだ使用出来ません。元の生活に後どれくらいで戻れるかが心配です」

ふと、東北大震災そして福島原発事故の記憶が蘇る。震災で、一番、犠牲になり取り残されるのは障がい者(チャレンジド)たちだということ。多くの身体そして精神障碍者(チャレンジド)らが福島原発事故後、恐怖心の余り、避難所に入ることすら出来ず忘れ去られていったー。

市役所を後に、輪島市内を出来る限り、車で通れるところは隈なく視察した。一言で言うならば、街全体が戦場跡地のようなものだった。外観だけは辛うじて破損を免れた、老舗旅館でも建物の中は、地震で散乱している有様だった。老舗旅館の40代だと思われるご夫婦も旅館内では寝泊まりすることが出来ず、車のガレージの中で、布団を敷いて生き延びていた。彼らの食糧はコンソメ味のチップやお菓子など。乾物で空腹を満たしていた。港近くの地域に近づくにつれて、被害は大きくなる。高さ20メートル以上のビル、マンションなどが斜め横に傾倒している。建物の全壊を防止する為か、ストッパーとして木の柱が地面と建物の間に挿入されている。次の余震で、いつそれらの建物が完全に地面に叩きつけられ、破損物が至るところに飛び散るか。

 

恐怖でしかなかった。そんなことをお構いなしにか、住民らの車両が次々と半壊した建物の群像の間を走って行く。

避難所である輪島高校体育館では、60名以上の住居を失った被災者らが避難していた。夜6時過ぎになると、高校の玄関口で、大阪から派遣されて来た

に赤十字の医師らグループが何やら騒がしい。ノロウィルスの感染者が数名、避難民から出たというのだ。「水が全く使えない状況から、今後、衛生面が悪化して、感染症の拡大などが懸念される」と担当医師はSBSに対して応えた。

避難所では、雪が深々と降る中、氷点下1度の中、就眠用に被災者らに支給されるのは、1枚の薄いブランケット。毛布とも呼べないような厚さ1センチのカーペットのような敷物だ。体育館の冷たい床の上に、その薄いカーペットを引いて寝る。中には身体にかける厚い毛布もない人たちもいる。「背中が痛い。早く、敷布団が欲しい」―。高齢者の女性らは消されるような小さな声で苦情を話してくれた。24時間、暖房は付いているが、機械の誤動作でだろうか、夜中に数回、暖房が止まる。その瞬間、寒さの余り、避難者は恐怖を覚える。

「プライバシーを守りコロナ感染を予防するための段ボール衝立もなく、段ボールベッドもない。雑魚寝だ。2011年の東日本大震災の後、地震の多い日本各地で、段ボール別途や感染予防テントなどを準備するように言われて来た。しかし、この輪島の体育館ではそのような備えはなかった。13年前の東日本大震災当時と変わらないシーンが目の間にあるのに、唖然とした」―。藍原氏はこう厳しく指摘、少し憤慨している様子だ。

震災の衝撃が余りにも強すぎた性だろうか。体育館の外に、早朝から一人の高齢者男性が立ち往生していた。痴ほうが悪化したのだろうか。全身にビニール紐を巻き付け、首からは懐中電灯をぶら下げている。紺色のダウンジャケットを羽織り、下は毛玉だらけの灰色のトレーナズボンを着用している。

「寝る場所がない。寒いし、お腹が好いた」―。その男性は同じことを繰り返し訴えていた。

翌日1月8日、全国紙の新聞(読売)が、輪島市内の避難所で高齢者1名が「低体温症」で死亡、との記事を掲載した。

6日目、7日目の時点で、敷布団や掛布団は避難者には十分には配給されていなかった。簡易トイレは設備されていたもの、彼らの身体を温める仮設風呂はまだ建設されていない。避難所で女性らが安心して着替える場所が確保されていなかったことから、中には、排泄物の異臭漂う仮設トイレの中で、毎朝着替える女性らもいた。夕飯の配食は、冷たい非常時用の銀色レトルトパックに入った飯と乾パン。朝は、黄緑色をしたメロンクリームの入ったコッペパン、又は、ウィンナーソーセージ入りのパン。「炊飯器で炊いた温かいご飯が食べたいです」と高齢者女性が呟いていた。

政府からの支援物資などは充分ではなかったが、民間の支援団体ボランティアが、こうした冷え切った被災者らの心身を温めるのに大活躍していた。名古屋市からはパキスタン人男性ら5人がワゴン車一台で輪島高校まで出向いていた。「温かいチャイ」と「パキスタンカレー」の炊き出しを、被災者らに振舞ってくれた。

同時に、栃木県からも民間団体が温かいうどんを配布していた。暗闇に一条の希望の光を見たような瞬間だった。

こうした民間の支援は現地でも大変喜ばれ、大貢献している。

7日の午前、輪島市に全国から郵送されてくる支援物資の量を見に、文化会館まで出向いた。支援物資の全体の量が、会場の4分の1も占めていない。「これでは不足だ!」、と一目瞭然で分かる。「支援物資もそうですが、物資を運ぶ人が少ないのです」と被災した身でありながら、現場で懸命に働く市役所男性が現状を訴えた。

 

 

 

 

 

 

連日、東日本大震災を経験した宮城県警が対策本部として輪島で活躍していた。当時、津波被害者のご遺体捜査などに従事していた警察官らも今回、最前線の現場で働いている。7日午前、早朝から、宮城県警の警察官ら30名ほどが、輪島市の漁港側の焼け野原となった一帯で遺骨捜索をしていた。第二次戦争中の東京の焼け野原かと思うような光景だ。その約半径500メートルに及ぶ地帯は、直下地震直後、延焼で全てが燃え尽きた。5階建て(?)ビルだろうか。20メートル位のオレンジ色の鉄筋コンクリートの建物の上層部から出火。山から港に向かって、強風が吹き、一瞬で辺りが火の海になった。その出火ぶりは過酷で、7日目の午前中でさえ、数か所で煙がもくもくと未だに立ち込めていた。

 

 

 

 

 

 

 

「ご家族4名がここで行方不明に。今日早朝に、ご遺骨の一部は見つけ出されました」―。捜査担当警官が教えてくれた。出火元のビルから20メートルほど離れた古い民家の跡地。完全に消滅している。2階建ての民家で、一家4人は一階にいたことから、相当、奥深く地面を掘り下げないと遺骨は見つからないだろう。雪が降り積もる。捜査員らの手先も寒さで麻痺していた。

「今日の場合、土を少しずつ掘り起こしても、直ぐに雪が積もるので、すぐに捜索に実行しないといけません。探している遺骨が分かりにくい状況ではあります」―。

 

 

 

 

 

 

 

 

地面からは火の煙がまだ立ち込めていた。SBSのフェルナンデス特派員は、機敏な動きで、手持ちのiPhoneで煙の様子を撮影し、動画で配信を開始した。遺体捜査の現場から、遠くに雪で白くなった山々が見える。そこにはまだ、山岳の孤立地帯があり、自衛隊らの救助そして物資支援を待ちわびている人たちがいる。車両では決して、辿り着けない地域だ。ヘリでしか到着出来ない。

自衛隊ヘリの搭乗を依頼していたが、天候に左右されるため、なかなか出発出来ない。視界が悪くなることから、雪、雨、強風、雷などの悪天候の中で、自衛隊ヘリは飛べない。1月6日―9日まで、搭乗の可能性を待っていたが、自衛隊ヘリは輪島市内の臨時ヘリポートから孤立集落へ数回程度しか往復していない。孤立集落の支援物資、救助はどうなっているのか?

夕方頃、市内、港近くのルートインホテルロビーに、7-8家族が寒さでわなわなと震えていて何かを待機していた。次に来る脱出輸送用ヘリを待っているという。

「ここから早く逃げ出したい。赤ちゃんもお風呂もずっと入っていない」―。涙目で、生後数か月の女児の乳飲み子を抱き抱えながら、20代前半とみられる女性が訴えた。

その女性の配偶者と見られる男性は、「物資が届いていない。今、僕は下着さえ履いていない状況です」と現状を語った。

ホテルのすぐ後ろには、海上自衛隊の艦船が1隻、港に停泊していた。艦船で住民は脱出させてあげられないのだろうか?

寒さに震える住民らに対して後ろめたさを覚えながら、我々は被災地の現場を立ち去った。ご遺体捜査の現場を監督していた警察官が最後に、JFJNに漏らした言葉が忘れられない。

「今回、日本の報道機関は国民に対して、震災被害を小さく見せようとしている。被害の事実を詳細に報道してほしい」―。

 

SBS ニュース報道一連リンク先はこちら。

https://youtu.be/tRxA3fk2B30?si=A3442NHeWMMMC7_M

https://youtu.be/tRxA3fk2B30?si=A3442NHeWMMMC7_M

https://youtu.be/qSfUHgMOwg4?si=srzJw7m5qKShrVC_

https://youtu.be/o0GR93qhZ5c?si=eABnnVCcRwg83XwV

 

11月16日現在、能登半島地震で、ホテルや旅館などの2時避難所に移った人数は1278人。わずか、1万7千人超の避難者全体の7%だ。石川県発表では、死者数は222人。うち14人が災害関連死と見られる。

JFJNは関連死を防ぐ上でも、能登半島の大震災・津波の現場を詳細にレポートし、国内外に伝えて行きたいと願っています。フランスの国際ジャーナリストNGO「国境なき記者団」の日本特派員として、東日本大震災以降、「報道の自由」を擁護し、声なき人々の声として海外に発信し続けています。輪島市内にはメディアもまだほとんど到着したこともない孤立集落が存在しています。能登半島震災現場を取材し続けたい。継続に当たり、スポンサーや募金が必要です。

確実な情報を届けるだけでなく、支援物資も現場に届けたい。皆様のご協力何卒よろしくお願い申し上げます。

JFJN代表

瀬川牧子

連絡先:info@jfjn.jp

携帯:080-3255-8869